ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」はなぜこのように心を締め付けられるのか!

チャネリング効果

今日は、
思わずラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を
聴いてしまったことで、
ついラフマニノフのことを書きたくなりました。

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お~い、江戸時代は何処行った~。

ロマン派じゃなかったの~?

まぁ、いいじゃないですか(笑)

今日、
さぁ!ブログを書こう!

パソコンに向かったところ、

YouTubeカラヤンの音楽を聴きながら
書くとするか!
と、
検索したら
ラフマニノフが目に止まった。

すると、
妙にラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」が
耳に残るのです。

もう、これは書くしかない!

と言うことで、
今日はラフマニノフです。

ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」はなぜこのように心を締め付けられるのか!

セルゲイ・ラフマニノフの基礎知識

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Серге́й Васи́льевич Рахма́ниновロシア語: [sʲɪrˈɡʲej vɐˈsʲilʲjɪvʲɪt͡ɕ rɐxˈmanʲɪnəf]
ラテン文字転写例: Sergei Vasil’evich Rachmaninov、1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) – 1943年3月28日)は、
ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ピアノ協奏曲第2番について

概要
作曲時期は、1900年秋から1901年4月。
第2楽章と第3楽章が1900年12月2日に初演された後、全曲初演は1901年11月9日(ユリウス暦 10月27日)に、ソリストに再び作曲者を、指揮者には従兄アレクサンドル・ジロティを迎えて行われた。
その屈指の美しさによって、協奏曲作家としての名声を打ち立てたラフマニノフの出世作である。
発表以来、あらゆる時代を通じて常に最も人気のあるピアノ協奏曲のひとつであり、ロシアのロマン派音楽を代表する曲の一つに数えられている。

多くのラフマニノフのピアノ曲と同じく、ピアノの難曲として知られ、きわめて高度な演奏技巧が要求される。
たとえば第一楽章冒頭の和音の連打部分において、ピアニストは一度に10度の間隔に手を広げることが要求されており、
手の小さいピアニストの場合はこの和音塊をアルペッジョにして弾くことが通例となっている。

作曲の経緯

ラフマニノフ、1900年代初頭

ラフマニノフの《交響曲第1番》は、今でこそ重要な業績と看做されているが、1897年の初演時には批評家の酷評に遭った。
私生活における問題も相俟って、ラフマニノフは鬱傾向と自信喪失に陥り、創作不能の状態となる。
1899年にロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスに渡ったラフマニノフは、
ここでピアノ協奏曲の作曲依頼を受け創作を開始するが、再び強度の精神衰弱におそわれる。

しかし、1900年に友人のすすめでニコライ・ダーリ博士の催眠療法を受け始めると快方に向かい、同年夏には第2、第3楽章をほぼ完成させた。
最大の難関として立ちはだかった第1楽章も同年12月頃に書き始め、1901年春には全曲を完成させた。
初演は大成功に終わり、その後も広く演奏されて圧倒的な人気を得た。
本作品の成功は、ラフマニノフがそれまでの数年間にわたるうつ病とスランプを抜け出す糸口となった。
作品は、ラフマニノフの自信回復のためにあらゆる手を尽くしたニコライ・ダーリ博士に献呈された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この頃のロシアは、
日露戦争前、1900年は恐慌で
弱小企業を淘汰し、独占資本の形成を急速に進めた時。

ラフマニノフは、

この頃、イギリスに招かれ
ピアノ協奏曲の依頼を受けたが
精神的な病で苦しんで、治療を受けスランプを乗り切って
次の年に曲を完成させた

ってなわけですね。

では、この曲から何がわかるかチャネリングしてみます。

ピアノ協奏曲第2番をチャネリングしてみました!

第3楽章までは長くなるので、
第1楽章のみチャネリングしてみますね。

寒い極寒の広大なる地
ロシアの風土が映像に浮かびます。

ピアノが入ってきますが、
広大で寒い厳しい地での生活から
その中でも
楽しみをみつけて生きていこうとする人々の姿。

人生を苦悩しながらも
乗り越えてたくましく果敢に生きていこうとする姿。

辛いことも悲しいことも
それをも包み込んでいくその生き様。

理不尽と思えることも
受容し、たくましく生きていく決意。

そんなものを私は感じました。

高次元の方はなんと仰っておられるのでしょう。

(高次元)

ラフマニノフは
自分の人生に苦悩しておった。

苦しみを抱えたままイギリスに来て
治療を受けた。

その治療を受けたことで、
自分の中で光を見つけた。

イギリスに来たことで、
故郷への愛しさを思い、
そこから書いた。

第1楽章は、
正しくラフマニノフが感じた
ロシアの姿で、そこに生きる人々、故郷への愛です。

ラフマニノフは
ロシアを愛していた。

まとめ

なるほど~。

ラフマニノフさんは、
優秀でめちゃイケメンで
周りの人にチヤホヤされた。

自信過剰になっていたところ、
初演の時に不評と
私生活(めちゃイケメンだから男女間?)のことで、

自信喪失して
鬱病になってしまった。

極端や~。

そこで、
故郷を離れたこと、
精神治療とで、

自分を取り戻して書いたのが
この曲というわけなんですね~。

簡単に言っちゃうと
ホームシック?
これが荒療治になった?

つまり、
故郷への愛
ということかな?

でも、
なぜか
この年代の作曲家さん達の音楽は
20世紀初頭の空気を感じますね。

時代って反映しているなと思います。

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